山陰の遺跡巡り | 玉造温泉・出雲神々縁結びの宿「紺家」

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島根 出雲・玉造温泉の旅館「紺家」がお届けする、季節のお便りです。
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カテゴリー別アーカイブ: 山陰の遺跡巡り

加茂岩倉遺跡

ここは加茂町にある加茂岩倉遺跡。(↓青丸が荒神谷遺跡、赤丸が加茂岩倉遺跡)
1996年、道路を作るために重機で山を削っていたところ、なにやら土の中から物が出て来て、その青みがかった器のようなものを見て「ポリバケツ」だと作業員の方が思われたそうです。
出て来た銅鐸の総数は39個。このように大量の銅鐸がはっきりした埋納状態で出て来たのは国内ではじめてのようです。
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どんなところで出たんだろうとワクワクしながら山の奥まで車を走らせるとなにやら建物が見えてきました。
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発掘現場は、ガイダンスの建物から谷に沿って作られた廊下の先にありました。
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これは発掘現場の近くにあった埋納坑。中はからっぽだったそうですが、同じような形の穴に39個は入れられていたんでしょうね。
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その横に再現現場がありました。リアルです。
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これは重機のアーム先のバケットから降ろした状態のもの。壊れているものもあります。
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さて、これが私の関心事項であります「×」印の刻印です。荒神谷の銅剣と加茂岩倉の銅鐸の両方に付けられているものです。この「×」印を見てどう思われますか?
私はこれを見て「結構雑に刻まれているんだな」と思いました。
もしも思い入れがあるのであれば、綺麗に中央に刻みますよね。なんだかさっさーと打ち込んだように思えます。
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いろいろな説があるかもしれませんが、全くの素人が僭越ながら勝手に想像してみてもいいでしょうか。中途半端な想像のまさに妄想ですがお許しください。
そもそも銅鐸と銅剣と銅矛は、神様にお願いや感謝の気持ちを表すお祭りの道具として使われていたそうです。
有る説では銅鐸は神様を勧請するために、銅剣や銅矛は悪霊を退治するために。
いまの仏教でいうところの銅鐸は半鐘か鐘で、銅剣や銅鐸はお坊さんが持っている払子のようなものでしょうか。
わたしは、銅鐸と銅剣や銅矛は、一つの場所で大勢が同じ場所で御祭りをしていたのではなく、個々のムラに一つの銅鐸と数本の銅剣というようなセットで置かれていたのではないかなと想像しています。
各々のムラにシャーマンのような役割の方がおられて、その都度儀式を行なうというように。
例えば、秋の収穫後に感謝の御祭りをしたり、天災の時は救いを願う御祭り。
それがある日、外からの権力者もしくは外からの情報で、その儀式のやり方が否定もしくはもっと良い方法に変えようという伝達がなされ、各ムラから銅鐸、銅剣、銅矛が集められ、いままでは大事なものだったけれどこれからは使わないものということで集中して埋納されたのではないかと。
そこでこの「×」印ですが、これは御祭りの道具の力を封じ込めたり、保有者のサインなどではなく、管理のための印ではないかと想像しています。
収集リストのような?なにかがあって、ムラから回収したものをチェックリストと照らし合わせてチェックが済んだら「×」印を付ける。なんとなくあの×印の刻み方を見るとそのぐらいの使われ方が丁度良いのではないかと。
ただ、なぜ新しいやり方にしたのか、新しいシンボルは何なのか?なぜ個々に埋納するのではなくて、まとめて埋めるのか。いろいろと論理立てないといけませんが、お許しください。もっと勉強します。
わたしの遺跡巡りをする楽しみは、古代人が残した軌跡からその人がなにを考え、感じていたかを想像すること。物の並べ方、印の刻み方など、勝手な思い込みではありますがタイムマシンで昔を覗いているように楽しんでいます。
みなさんもこの秋、現場を訪れながら昔の人々の生活に思いを馳せるのはいかがでしょうか。
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荒神谷遺跡

小雨が降ったりやんだりのどんよりした曇りの日に久しぶりに荒神谷遺跡に行ってきました。
1984年に銅剣が358本、翌年に銅矛16本と銅鐸6個が出土した有名な遺跡ですね。
もうあれから27年も経ったんですか…
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27年経った今でもなぜ大量の銅剣が埋められていたのかをはっきりしないとボランティアのガイドの方が説明をされてました。
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どうしてここに埋められていたんでしょうね。想像するだけで楽しくなってきます。
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今は整備されていますが、昔はマムシでも出てきそうな谷の奥に遺跡がありました。
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整然と並べられている銅剣群を見ると、古代の人達が大事に一本一本並べているのが目に浮かんできます。
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ただ資料を読みますと、そうではないことが分かってきます。実は、奥の二列は、同じ方向に揃ってますが、手前の二列は交互に並べられているそうです。
ある先生の説は、奥から一本一本並べていたところ、段々と手前の持つ所が厚いため膨らんできて、途中から前後のバランスを取るために交互にしたのではないかということです。面白いですね。
しかし、もしも銅剣が神聖で大事なものでしたら、そうしましたでしょうか。私だったら途中で並びが綺麗でないと感じて、最初からやり直すと思うんですが…、私って神経質かも…
複数人で作業をして途中で「交互にしたらいいんじゃないか」と意見が上がったのかもしれません。
では、そのような大事そうだけどそうでもなさそうな感覚で取り扱う銅剣はどのようなものだったんでしょう。
勝手に想像させていただきますと、いままで大事なものだったけれど、これからはそうでない物。のように感じます。それは並べ方だけでなく、344本に付けられた「×」印の刻印からも感じます。
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なぜここに埋められたのか僭越ながら想像してみてもよろしいでしょうか。
秋の夜長、こうやって古代に思いを馳せるのもいいものですね。
荒神谷遺跡の発掘の12年後の1996年にこれまた大量の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡にも行ってきましたので、そちらも見てから考えてみましょう。
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妻木晩田(むきばんだ)遺跡

秋晴れの元、遺跡を散歩しながら古代に思いを馳せてみるのはいかがでしょう。
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今回訪れたのは、米子市と大山町の間にある妻木晩田(むきばんだ)遺跡。ここはゴルフ場を作ろうと工事をしていたところ発掘された弥生時代後期にあった大規模な集落遺跡です。
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復元された竪穴式住居や高床倉庫を見てると、ここで生活していたら快適で楽しいだろうな、と想像してしまいます。
なぜなら丘を見下ろすと美保湾と弓ケ浜と島根半島が一望でき、日当りも良く、海から気持ちよい風がそよいでいます。
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ここの特長の一つは、半焼失状態で竪穴式住居が見つかったこと。その焼け跡から住居の構造を想像し、復元しているそうです。
焼け跡に家財道具がなかったのでわざと焼いたのではないかという説があるそうです。アイヌ民族は死者が出たお家を焼いて供養していたそうですので、関係があるのでしょうか。
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あともうひとつは遺跡のシンボルマークにもなっている四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)。四隅が飛び出たような形で山陰地方に多く見られる古墳です。この古墳、かじり出すと止まらなくなりそうですので流します。
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ひとつ気になることは高台に住むということは、平地や海から食料を運ばないといけませんし、水もどこかから持ってこなくてはなりません。それらの苦労をしてまで高い所に住まなければならない理由を考えると面白いですね。
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